私はもともとインドアで、家の中でコツコツと制作することの方が好きなのですが、昨年からプログラムも増えたことから外に出る機会が増えました。
娘のお迎えは私の担当なので、お迎えの時間になると保育園に向かいます。
その時に出来るだけ気をつけていることが「派手な服の時は着替えて行く」ことなんです。
人に言うと「面倒くさくない?」とか「そのままの自分で行けば良くない?(なに遠慮してるの?)」と言われることもあるけれど、それは少し強引な気がしてしまうんです。私には私の親像があり、娘が心地良いと思える自分でいたいと思っているんですね。
これが自分なのよ!と分かってもらいたいだけだった過去
こう思うようになったきっかけは、やはり家族とのことでした。
以前、夫に、「派手な格好をしてステージで歌う自分」を見に来てもらったことがあったんです。その時は、夫に「出したい自分が出せていなかった悲しさや寂しさ」があって、とにかく「これが自分なのよ!」と主張したい気持ちが強かったんですね。
夫はその時、普段見ない私にびっくりしていましたが、「そうだったんだね」と受け入れてくれました。否定することも謝ることもなく、特に何も変わらない様子だったんです。そんな夫を見て、自分の中の「出したい自分を表現したい!」っていう執着が薄れたような気がしました。夫に対しては、「夫が心地良いと思う自分で良いや」と思うようになっていったんです。
なので私は普段、家族に対しての自分と、仕事や活動をしている自分が、切り分けられている感じで、そこに同一性を求めていないんですね。誰に対しても「一貫性のある自分らしい自分」でいたいというより、自分の気持ちも大切にしながら、大切な人も心地良いと思う自分で在りたいと考えるようになりました。
今はリアリティのある発信が求められているところがあって、「良いところも悪いところも、ありのままの出したい私を全部発信した方が良いんですよね?」などの相談を受けることがあります。私はこういった時に「誰にどんな自分を表現するか、相手によって違っていても良いのでは?」と答えているんです。
それよりも大切なことは、「自分が相手にこういう自分を表現すると、その相手はどう思うか?」まで汲んだ上で、表現の選択ができることではないかと思うんです。
着物が着たい気持ちを丁寧に自己表現していく主人公
先日、広告でとても面白い漫画を見かけました。
東村アキコさんの「銀太郎さんお頼み申す」の1シーンです。
友達の結婚式でどうしても振袖が着たい主人公。
だけど一緒に参列する友人に相談するも、みんな否定的な反応…
「花嫁よりも地味な格好をすべきでは?」
「着物を着るのは親族だけじゃない?」
「今はカジュアルにするのが普通」
いろんな「常識」や「普通こうだよ」の意見に対し、「普段は行かない格式高いホテルに見合う自分でありたい。ただそう思うだけなのに…。着物を着たいという自分の気持ちは、おかしいことなのかな…?」と悩みます。
主役の花嫁自身が着物NGと言っていないこともあって、やっぱり諦められない主人公は、結果的に着物を着ていくことを決断するわけなんですが、ここですっごく素敵だなーと思ったことがありました。
それは、「関係するいろんな人の気持ちや、どんな着物であれば、花嫁の存在が引き立ち、自分が表現したいことも表現でき、みんなが嬉しい気持ちになるかを丁寧に確認して準備したこと」だったんです。
自分の気持ちだけを強引に押し通し自己表現するのではなく、花嫁本人や、花嫁のご家族、着物の先生たち、参列する友人たち、いろんな人たちの考えや気持ちを確認して、尊重し、最終的には友人と一緒にみんなで着物を着て参列します。
結果、とても上品で格式高いホテルにも見合う主人公たちが、花嫁をいっそう華やかに引き立てて、その場にいるみんながニコニコ幸せになったんですよね。めちゃめちゃ素敵なエピソードじゃないですか。
自分らしい表現が、怒りの表現になってしまうとき
自分らしさを表現したい!
自分が着たい服を着る!
という自己表現をする人もいますが、自己表現がある意味で、自分の気持ちを爆発させただけの、怒りの表現になってしまっている人もいると感じます。
「こんな格好をしたかったのに、できなかった」、「こんな事を発信したかったのに、言えなかった」と、それまでの気持ちが抑圧されていたあまりに、
「何か文句ある?」
「私がしたい格好をするわ!」
「分かる人だけ分かればいい」
と開き直っているような、そんな表現です。
そうすると、自分は解放的で気持ちが良いかもしれませんが、関係性を築いてきた人であれば、「そんな人だったの…?」と驚いて動揺したり悲しい気持ちになってしまったりする人も出てくるかもしれません。それってある意味で、相手にとってはとても乱暴な自己表現になっていないかなって思うわけなんです。
相手の気持ちを汲み取りながら、自分らしさを丁寧に解放していく愛の形
自分らしさの表現が、当てつけや怒りのニュアンスを帯びてしまう時は、昔、私が夫に「出したい自分が出せていない悲しさや寂しさ」を分かってほしかったように、怒りや寂しさを相手に分かって欲しいだけなのかもしれません。相手を傷つけたい訳じゃないなら、相手を大切に思う気持ちがあるのなら、丁寧に少しずつ分かち合いながら、自分らしさを解放していくという愛の形もあるのではないでしょうか。
自己表現ワーカーは、閉じ込めていた自分らしさを表現していく働き方ではありますが、怒りや悲しさの当てつけの自己表現をする人を増やしたいわけではありません。相手の気持ちも汲んだ上で自分らしさを表現し受け入れてもらうことにチャレンジする人でありたい。そんな自己表現の所作を伝えていきたいと思っています。
あなたの自己表現の参考になったら幸いです。
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